書けない日
『積ん読解消連盟』を立ち上げて1年半以上になるのに未だに書けなくなる日があります。情けない事です。
レビューが書けるか、と言うのはその日の体調や精神状態によっても影響があり、作品を読むともなしに文章があふれ出してくる日もあれば、どんなに感情的に訴えるものを観たり読んだりしても書けない日もある。どうも今日は後者のようで、色々と試してみたが駄目のようである。
最近実は以前書いたジレンマ
とは別のジレンマに苦しんでいる。それは自分が作品にどう関わればいいか解らない、と言う事である。主催者は10年間かっこよく書けばビジネスマン、有り体に言えばサラリーマンだった訳で、どんな風にお金もうけをするかと言うシステムを常に頭の中に描く自分と言うのが存在する。次にアミューズメントの関わって現在の師匠の教えを受けてからプロデューサー、つまりクリエイターをどうコントロールし、作品をどう売り込んでお金を集め作品を具現化するかを考える自分が存在する。その次に自分自身が伝えたい事があってそれをどうすれば伝えられるか、と言う薄弱ながらもクリエイターとしての自分が存在する。そして
Profile
にあったようにかつて目指した音楽家、得にプレイヤーとしての自分と言うのもいて、そのいくつもの思考(人格と言っても良いと思う)が常にせめぎ合っている。例えば、自分の師匠に映像作品の構想があるとする。直ぐに考えるのはそれが金もうけの手段足りえるか、と言う事、平行してその企画は呼び水を投入して予算を確保して具現化できるか、具現化するとすれば誰をスタッフに選ぶか、そのスタッフを説得できるか、ギャラはいくらか、制作期間はどの位か。そうした情報がフィードバックされ、再び具現化の方法が再検討される。それとは別のところでその映像作品のビジュアルイメージが頭の中に出てきてそれをなんとしかして自分で作れないかと言う自分が存在する。どういう脚本にするか、どんな風に動かすか、カメラワークは、どうすればそのメッセージが伝わるのか。そしてそのイメージの中の音楽、大概は既存の曲が頭の中で再構築したものが聞こえてきたりする。それらのいくつもの思考が群を成して頭の中を駆け巡り、どれを優先するべきか解らなくなる時があったりもする。自分はビジネスマンなのか、プロデューサーなのか、クリエイターか、それともプレイヤーなのか。
それはそのまま自分の生き方にも通じている。器用貧乏とは良く言ったもので、親が期待するもの、会社が期待するもの、周りのスタッフが期待するものを及第点とはいかなくても少しは手伝う事が出来てしまう事が多い。自分の居場所が無い。自分の役割が解らない。神様がどういうつもりで主催者を送り出したのかも解らない。そしてここ3年の看病と介護の日々、そして法的な後始末はその「自分が何者か」と言う疑問に拍車をかけた。肉親を失ったと言う傷と同じくらいに主催者の負ったしがらみは大きい事に今さらながら気付いた。主催者も決して若くはない。焦りは大きい。
Posted: 火 - 12月
14, 2004 at 11:58 午後